山里の自然と文化に生きる人の映画「風の波紋」から「家」を考える
先日、風の波紋という映画を見に行ってきました
というのも
新潟県十日町市の中原・中立山集落周辺が舞台なのですが
ここは、いまぼくが茅葺屋根の勉強に行っている場所で
教えてもらっている親方が主演のような映画なのです
そして、そこに移住してこられた方が
この上映会でトークショウをするということで
お誘いいただいて観に行ってきました
映画はこの場所で生きる人たちの生活の映画
言ってしまえばこの集落では何の変哲もない日常
冬になれば雪が地面から屋根まで届いてしまうような
電線をまたぐような地域です
内容は映画を見てもらうのが一番なので多くは書きませんが
上映後の監督の言葉がとても印象的でした
里山を守っていかないという話をされていたとき
自然とはnatureを日本語に当てはめてつくられた言葉で
海外では絶対的神のもとに自然と人間は別のものだが
日本では人と自然は同じもの。自らも然り。
自然であるという考え
里山を守ることは、川を守り、川を守ることはきれいな海を守ること
海を守ることは私たちの生活を守るということ
里山は人間でいうと毛細血管のようなもので
どれだけ大きな血管が健康であろうと
毛細血管がダメになっていけば体全体がダメになってしまう
逆に言えば毛細血管が体を支えているともいえる
ぼく自身が里山で生活をしていて
毎日いたるところで感じるものを、少しの危機感を
言語化されたようでした
作中では取り壊しをしてしまうかやぶき民家がでてくる一方で、地震で傾いたけど修復して住み、修復後にその修復に携わった人が大喜びしている様子が出てきます。
その映像を見てぼくは「家」についてとても考えさせられました。
ぼくは正直、家という感覚があまりないです。
家を守るという考えもわからないです。
今の若い人は同じように思う人も多いんじゃないでしょうか?
転勤族であまり定住したことがない人は故郷を持たない人もいるかもしれません。
一方で、ぼくのいる荻ノ島のお母さんたちは人生のほとんどくをこの場所で暮らしてきた方々ばかりです。
その方々にとっての家とは、ぼくたちが簡単に住み移る家とは全くの別物のように感じました。
ぼくの今住んでいる家は、集落に住むお母さんの実家だった場所です。改修されて中はとてもきれいになっていますが、かやぶき屋根はだいぶ古くなってきました。
隣の家のお母さんは大きなかやぶき屋根の家に今は一人で暮らしています。
荻ノ島の茅葺のある景観としてとても大切な1軒なのですが、雪下ろしの大変さ、修繕費の高さから、話を聞くたびに「もう潰すよ」という話を残念ながら聞きます。
もちろんお母さん方は潰したいわけではない。と思います
でも雪国が故に、人が住まないで屋根にたまった雪を放置しておくと雪の重さでつぶれてしまう。
人口減少と担い手の不足はこういったところにも垣間見えます。
現在、荻ノ島の茅葺屋根の民家は8軒、20年前は25軒ほどあったようなので、もうこの20年で17軒も減少してしまったことになります。
家とは何なのか。
ぼくはいまこの大きなかやぶき屋根の家に1人で住んでいて、不自然さを感じます。
家はおそらく1人で住むものではない。たぶん猿の人間は特にそう思います。
家に1人で住んでいるとそれだけで病んでしまう人はたくさんいるように思います。
孤独死も生まれるはずだと思います。
孤独死を救うのも人、地域を存続させるのも人
結局は人によってどう解決していくのか
そこが問われる時代になってくるんだろうな~
ぼくも立ち向かっていきますよ
1人じゃできないから仲間とね
橋本和明
家とは何でしょうか
人によってどういう意味を持つのか