自分の命に価値など無い
この言葉はある種あっているし、間違っている。
ぼくの好きな漫画「バガボンド」にはこう書いてありました。
命に価値はない
自分だけのものと考えているなら
最近ぼくの知人の中でも時々「いつ死んでもいいと思っている」「長生きしたいと思わない」という人がちらほらといます。
これに対して、「個人の自由だ」としてしまえば「たしかにそうだ。」で終わってしまいますが、そもそもこの「個人の自由」という考え方が間違っているのかもしれない、とこのバガボンドの言葉をみて思い始めました。
バガボンドの言葉はこう続きます
何故生まれた?
自らがここいいる理由は
誰かが命をつないでくれたから
「やりたいことがない」「将来の夢がない」「何のために生きているかわからない」この悩みの根源にあるのは「自分の命は自分のもの、自分だけのもの」という考えがあるからかもしれません。
ぼくは「自分のやりたいことは何か」ではなく「この生命をどのように使うか」(by 熊野英介)という考え方に出会ってからとても楽になりました。
そもそも「自分のやりたいこと」「将来の夢」「自分の生きる理由」はとても答えが出ずらいと問だと思います。
なぜならこれらは欲なので、欲のない人には再現しづらいとぼくは思うからです。
そして、例えばこれらを「仕事」「職業」として見つけようとしている場合、それをする相手が見えない状況は、この答えはより一層出づらくさせます。
想像してみればわかりますが、何かをしてあげたいと思う「人」がいなければ、「それをしたい」と思わないでしょう。「それをしたい」が「人」よりも先にくる状況は、欲でしょう。
なので「業績を上げたい」という人はどんどん仕事ができますが、欲のない人には仕事が辛いだけのものになる。
いま、3年で仕事を辞めてしまう人が多いのは「誰にそれをするか」よりも先に「仕事」を決めてしまうからのようにも思います。
だから「別にしたい仕事じゃない」になるし、「自分のやりたいことじゃない」という悩みになってしまうのだろうと思いました。
ぼくはそうなるのが想像できたので、愛する人をつくりました。まあ結果的に気付いたことなんですが。
以前にも考えましたが、別に自分のやりたいことがない人が自分のやりたいことを探すことにそれほど意味はないと思います。
自分のやりたいことは「ある」「みつかる」とされてる前提自体が窺わしいものだとぼくは思っています。
この考え方はバガボンドの中でもお坊さんが言っていることなので、少し宗教的な考え方なのかなあとも思いますが、本当に大切な考えだなと改めて気づかされました。
自分がここにいるのは誰かが育ててくれた米や野菜を食べているから。牛や豚や鳥が生きていて、それを食べているから、木が生えていてそれを誰かが木材にして家を建ててくれたから。
自分の命は自分だけで支えているものではなく、いろんなもの・ことに支えられている。そのことに気づき、感謝することができれば自分の命の価値についても気づくことができるように思います。
「何がしたいか」ではなく「何ができるか」という考えに変わるような気がします。
その中でやっていて幸せだなあと思うことが見つかれば、やりたいことがなくても幸せだし、それがやりたいことになっているのかもしれません。
まあ、といっても人間欲はあるもので、やりたいことはなくても興味のあることくらいならある人も多いので、それと自分できることを掛け合わせることがいいのかなあというのが今のぼくの結論です。
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結局は「命への感謝」
道徳って大切だなあと思いました。
小学校で道徳の時間にも勉強するのってきっといいことないね。
今日はここまで。
橋本和明
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