誰かがやめないといけない 〜当たり前を捨てていく〜
こんにちは!!
ツギツナグの橋本和明です。
当たり前ってなんでしょうか?
最近は何をしていてもそんな事ばかり考えているので、少し考えた事をまとめたいと思います。
改めて、“当たり前” とは何でしょうか?
例えば 「食卓」
食卓は家族で囲んで和気あいあい
話をしてコミュニケーションをとる場
のが当たり前?というイメージの人が多いように思います。
でも、このイメージは高度経済成長期に作られたもののように思います。
団地でひと部屋に家族が集まって
「おいしいね〜」と言い合う感じ。
今ではこのイメージが当たり前かもしれないけれど、昔は食卓での会話は無かったと聞きます。
それは、無言で食べ物と向き合うことが大切とされていたから。
それが当たり前の食卓の姿でした。
例えば、芸術祭
瀬戸内芸術祭や大地の芸術祭など
地域にどーんと芸術作品がある姿
これは昔ではあり得なかった姿かもしれません。
でも、ぼくらが生まれた世代では、それほど違和感は感じないんじゃないでしょうか?
個性的な服の人がいたって、海外の方がいたって、別におかしいと思わない。
ある種、いろんなものが混在していることが当たり前の世代だと思っています。
というように
普通に考えれば普通のことなんですが
当たり前は世代や文化によって違います
当たり前に流行だってあるかもしれません
じゃあ、当たり前って何だって考えたら
それは
いつからか作られたイメージが一般化した時に当たり前になるんじゃないのかなとぼくは思います。
クリスマスが日本で当たり前になったように、いまショッピングモールに行けば仮装用の服が売っているハロウィンのように。
でも、当たり前って怖くないですか?
当たり前だと思っていたらなかなかその事について考えない。
だから、自分が嫌だなぁ〜と思う方向に流されてしまう結果に行きつきかねない。
今日、柏崎の原発の安全性が認められてまた稼働の道を辿っています。
原発が稼働しないと工場などは電気代がかかり過ぎて企業が出ていってしまう
原発がないと電気代が上がって生活が圧迫される
わかります。
でも、それでも、いま一度
当たり前を考え直さないといけないと思います。
今の時代、どこでもスイッチを押せば電気もガスも出る。水道も流れている。
日の光があっても、昼からでも当たり前のように電気をつけている。夕方少し暗くなればまだ見えても部屋の電気をつける。コンビニに行けば当たり前のように常に商品が並んでいる。
商品が常に並んでいるということは、常に生産されているということ、常に電気を使っているということだと思います
日本は経済的に成長してきて
今はこれが当たり前の世界になりました。
この当たり前の世界は
求められたからか、求めたからか
考え出したらニワトリが先かタマゴが先かという話になるのでここでは触れませんが
あまり、その当たり前が本当に自分が望む事なのか、そうでないことなのか、考えられず進んできたようにも思います。便利だと人間は使ってくれるから
でも何だか、漠然と、不安なんです。
このまま国として経済成長を目指していくと、今の当たり前を加速していこうとすると、もう戦争するしかなくなるんじゃないかって
なんかこの当たり前と戦争って繋がってないようで繋がってると思うんです。
今の当たり前は無理なところで周ってる気がする。ここから経済成長をまだまだ求めていったらなんかもう破裂しそう。
だから、改めて当たり前を考え直さないといけない、というか考えたい。
これは誰かに強要したいわけじゃなくて、でも一緒に考えたい。そんな話です。
直結しているとは言いませんが
とてつもなく極端に言うと
原発があって電気代が安くて
コンビニが24時間開いていて
そこに常に商品が並んでる世界か
原発がなくて電気代が高いから
コンビニは夜は閉まっていて
商品も限定数しかないような世界か
本当にコンビニに常に商品が並んでないと嫌なのか、別にそうじゃなくていいのか
そんなとこから
いま一度 “当たり前”を考えたい。
いらないなら、これまでの当たり前を捨てていきたい。
そんな不安ともやもやの投稿でした。
橋本和明
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